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”不労所得と生きていく”

体罰に「愛情」なんてない。あるのはただの恐怖だけだ

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こんにちは、さとちん( @satochinncom)です。

 

ここ数年、教育界で無くならない体罰に関連する問題がニュースになっている。

僕はこの「体罰」のニュースについて、被害者、加害者の両方の目線から体罰・暴力の問題について語ろうと思う。

 

結論を先に述べると、体罰に「愛情」なんてない。

あるのは、「暴力でしつけができると思っている加害者」と「大人に逆らえずにただ恐怖を覚える被害者」の関係だけ。

体罰は絶対に容認されるものではない。

 

体罰は暴力で問題を解決しようとする最低な行為だ

僕は中学生の時、部活動でビンタをされて何度も体罰を受けた。

強い部活動だったこともあり、格下の相手に負けた時や不甲斐ない試合をした時に体罰が行われた。

僕が泣いても暴力を止められることはなかった。

 

コーチから叩かれた時には、「僕が悪いんだ」「僕が弱いんだ」と思い、コーチと生徒という主従関係の下で、逆らうことは僕の選択肢の中になかった。

 

体罰で生徒のやる気は挙げられないし、生徒が反省することに絶対に繋がらない。

僕は被害者として体罰でやる気が上がったことは一度もなかった。

 

体罰に「愛情」なんてない。

体罰を容認する人の中で、子供のやる気が生まれるし、しつけのためには必要だから「体罰は愛情だ」と主張する人もいる。

この主張に暴力を受ける子供の意見は一切入ってないし、大人の暴力を美化する言い訳にしか聞こえない。

そして、「子供を一人の人間」としても扱ってない。

 

もし暴力でやる気が生まれるなら、会社の中でも、家庭の中でも、暴力が日常茶飯事に行われてるはず。

 

「体罰に愛情なんてない」

本当の愛情は子供の成長を陰から支え、成長する機会を与えたり、自立した行動ができるようにサポートすることだろう。

体罰は絶対に容認されるものではない。

 

体罰で心が痛まない大人は心が腐っている

僕はコーチからの体罰を受けたことで、暴力に寛容になってしまい、一度だけ後輩に手を出してしまったことがある。

軽いビンタだった。

僕は叩いた瞬間に心に衝撃が走った。自分が暴力をする側になってしまい、1人の人間を傷つけてしまった。

 

その時から、僕は絶対に人を力で傷つけることを止めた。

たとえ、わがままで人の言うことの聞けない人でさえ、1人の人間であって、対等に接する人だということが分かったから。

 

たった一度の小さな暴力でさえ、僕は相手を傷つけてしまうことが怖くなったし、心が痛くなった。

今でもこの記憶は鮮明に覚えているし、後輩にはとても申し訳ないと思う。

 

この経験があるから、僕は、子どもに何度も体罰を行って、心が痛まない大人がいることを信じることができない。

 

体罰は百害あって、一利なし

理不尽な理由で暴力を振るわれて、嬉しい子どもがいるわけがない。

暴力でしつけができると思っているのは幻想で、暴力は愛情だと勝手に解釈するのはエゴでしかない。

 

僕は被害者として体罰の理不尽さ・怖さ・痛さが分かって、加害者として暴力をしてしまったという反省がある。

どちらの意見も考えもわかるから、僕はこう言いたい。

体罰にいいことは一つもない。

 

 

▼記憶は消えません。だから塗り重ねるのです。